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形式知と暗黙知の狭間:生成AIとの新たな知識共創

AI

はじめに

 知識管理の分野において、形式知と暗黙知は中核をなす概念です。デジタル技術の発展により知識の捉え方が変化する中、特に生成AIの登場は知識創造の新たな地平を開きつつあります。本稿では、形式知と暗黙知の基本概念を整理し、生成AIがこれらの知識とどのように関わるのか、そして人間とAIの知識共創の可能性について考察します。

形式知と暗黙知の基本概念

形式知(Explicit Knowledge)

形式知とは、言語や数式、マニュアルなどによって明示的に表現できる知識です。これは客観的・論理的であり、体系化されており、他者に比較的容易に伝達できる特性を持ちます。

形式知の例:

  • 教科書の内容
  • 企業の業務マニュアル
  • 科学論文
  • プログラミングコード

形式知は、「~について知っている」という「知っていること(Knowing-that)」に関連します。

暗黙知(Tacit Knowledge)

暗黙知は、マイケル・ポランニー(Michael Polanyi)が1966年に提唱した概念で、「我々は語れる以上のことを知っている」という洞察に基づいています。これは主観的・経験的な知識であり、言語化しにくく、しばしば「コツ」や「勘」と表現されるものです。

暗黙知の例:

  • 自転車の乗り方
  • 料理の味加減
  • 職人の技
  • 会話の間合いの取り方

暗黙知は、「~のやり方を知っている」という「できること(Knowing-how)」に関連します。

野中郁次郎と竹内弘高のSECIモデル

日本の経営学者である野中郁次郎と竹内弘高は、1995年の著書『The Knowledge-Creating Company』で、暗黙知と形式知の相互変換による知識創造プロセスを「SECIモデル」として提唱しました。

SECIモデルは以下の4つのプロセスから成ります:

  1. 共同化(Socialization): 暗黙知から暗黙知への変換
    • 経験の共有、観察、模倣を通じて学ぶ
    • 例:師匠の技を弟子が見て学ぶ
  2. 表出化(Externalization): 暗黙知から形式知への変換
    • 暗黙知を明示的な概念に変換する
    • 例:経験豊かな社員のノウハウをマニュアル化する
  3. 連結化(Combination): 形式知から形式知への変換
    • 既存の形式知を組み合わせて新たな知識を創造する
    • 例:市場データと財務データを分析して新しい事業戦略を立てる
  4. 内面化(Internalization): 形式知から暗黙知への変換
    • 形式知を実践して個人の暗黙知として取り込む
    • 例:マニュアルを読んで実践することで技能を身につける

生成AIと知識の関係

生成AIが扱える知識の性質

 生成AIシステム(例:GPT-4、Claude、Bard)は、主に形式知を学習しています。テキスト、コード、画像などの形式化された知識を大量に学習し、そこから統計的なパターンを見出します。

 しかし、興味深いことに、生成AIは形式知だけでなく、ある種の「疑似暗黙知」も獲得していると考えられます。例えば:

  • 文脈に応じた適切な言葉遣い
  • 表現のニュアンスの調整
  • 異なる視点からの問題へのアプローチ

 これらは、人間が暗黙知として持つものに類似していますが、AIの場合は大量のデータから抽出された統計的パターンであり、真の「体験」や「身体性」を伴わない点が本質的に異なります。

生成AIによる知識変換の新たな可能性

SECIモデルの枠組みで考えると、生成AIは以下のような知識変換を促進する可能性があります:

  1. 表出化の強化:
    • 人間が言語化しづらい暗黙知を表現するための補助
    • 例:「この味の特徴を説明して」という問いに対して、適切な言語表現を提案
  2. 連結化の拡張:
    • 膨大な形式知の中から関連性を見出し、新たな知識構造を提案
    • 例:複数の学術領域を横断する新たな理論的枠組みの示唆
  3. 内面化の支援:
    • 形式知を様々な文脈で説明し、理解を促進
    • 例:複雑な概念を様々な例えや視点から説明
  4. 共同化の補完:
    • 直接的な経験共有は難しいが、経験の言語的シミュレーションを提供
    • 例:「熟練者ならこう考えるだろう」という思考プロセスの模擬

生成AIによる知識創造の限界

一方で、生成AIには以下のような限界も存在します:

  1. 身体性の欠如:
    • 真の暗黙知は身体的経験に根ざしており、AIはこれを持たない
    • 例:「自転車の乗り方」を言葉で説明できても、実際に乗ることはできない
  2. 価値判断の困難さ:
    • 知識の「重要性」や「価値」の判断には人間の文化的・社会的文脈が必要
    • 例:特定のコミュニティにとって重要な知識と些末な知識の区別
  3. 創造性の根源的制約:
    • AIの「創造性」は既存データの再結合に基づくもので、真に「新しい」何かを生み出すことには限界がある
    • 例:既存の芸術作品のスタイルを模倣できても、新しい芸術様式を創始することはできない

人間とAIの知識共創に向けて

今後の展望として、人間とAIの知識共創には以下のようなアプローチが考えられます:

  1. 相補的関係の構築:
    • 人間の暗黙知とAIの形式知処理能力を組み合わせる
    • 例:職人の感覚とAIの分析を組み合わせた新素材開発
  2. 知識表現の新たな形式:
    • AIと人間の両方が理解・操作できる知識表現の開発
    • 例:マルチモーダル(テキスト、画像、音声など)を組み合わせた説明
  3. 継続的学習システム:
    • 人間の暗黙知をAIが継続的に学習し、形式知として還元するサイクルの構築
    • 例:専門家の判断をAIが継続的に学習し、その判断基準を明示化
  4. 知識の文化的・倫理的側面の考慮:
    • 知識の背景にある文化的文脈や倫理的価値観の理解と尊重
    • 例:地域に根ざした伝統知識のデジタル保存と活用

現場での活用事例と展望

ビジネス分野での活用

 多くの企業では、ベテラン社員の退職により、長年培われた暗黙知が失われる「2007年問題」や「2025年問題」に直面しています。生成AIはこうした暗黙知の抽出・保存・伝達を支援する新たなツールとなりつつあります。

実践例:

  • ベテラン従業員へのインタビューをAIが分析し、暗黙知をパターン化
  • 問題解決の過程をAIが記録・分析し、意思決定プロセスを形式知化
  • 新人研修でのAIによる状況別アドバイス提供システム

教育・学習分野での展開

教育の分野では、生徒一人ひとりの学習スタイルや理解度に合わせた個別指導が理想ですが、従来のシステムでは実現が難しい面がありました。生成AIはこの課題に対する新たなアプローチを提供します。

実践例:

  • 生徒の理解度に応じた説明の粒度調整
  • 様々な学習スタイルに合わせた複数の説明アプローチの提供
  • 教師の指導ノウハウのパターン化と共有

医療・ヘルスケア分野での可能性

医療分野では、経験豊かな医師の診断プロセスには多くの暗黙知が含まれています。生成AIはこうした暗黙知を部分的に捉え、医療従事者の判断をサポートする可能性があります。

実践例:

  • 症例データと診断結果のパターン分析による診断支援
  • 熟練医師の所見と判断プロセスの言語化支援
  • 患者とのコミュニケーションにおける表現方法の提案

結論

 形式知と暗黙知の概念は、生成AIの時代においても依然として重要です。AIは主に形式知を扱いますが、形式知と暗黙知の間の変換プロセスを促進する役割も担います。

 しかし、真の暗黙知が持つ身体性、文脈依存性、個人的経験の側面は、現在のAIでは完全に捉えることができません。この限界を認識した上で、人間とAIが互いの強みを活かし、新たな知識創造の可能性を探求することが重要です。

 生成AIと人間の知識共創は、単なる技術的課題ではなく、哲学的、認識論的、そして社会文化的な問いを含む領域です。この領域の探求は、人間の知性とAIの可能性についての私たちの理解を深め、両者の協力による新たな知識創造の地平を開くでしょう。

参考文献

  1. Polanyi, M. (1966). The Tacit Dimension. University of Chicago Press.
  2. Nonaka, I., & Takeuchi, H. (1995). The Knowledge-Creating Company: How Japanese Companies Create the Dynamics of Innovation. Oxford University Press.
  3. Collins, H. (2010). Tacit and Explicit Knowledge. University of Chicago Press.
  4. Dreyfus, H. L., & Dreyfus, S. E. (1986). Mind over Machine: The Power of Human Intuition and Expertise in the Era of the Computer. Free Press.
  5. 野中郁次郎・紺野登 (2003). 『知識創造の方法論』東洋経済新報社.
  6. 梅本勝博 (2019). 『知識マネジメント入門』日本経済新聞出版.

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